読んだの記その3「禅鳳雑談」(『古代中世藝術論』所収<1980 岩波書店>)

 「大原御幸」や「芭蕉」のような金春禅竹(1405-1470?)の作品が好きになって、彼の孫、禅鳳(1454-1532)の芸論があることを知って『古代中世藝術論』所収の「禅鳳雑談」だけを抜き出して読んでみた。上・中だけで下は何処なのだろうか。解説(守屋毅による)ではそのことは触れられていない。

 貴族や寺社だけでなく、当時から既に「坂東屋」とか町屋の素人の旦那衆との交流が盛んであったということだ。各巻奥書も「藤右衛門尉聞書」とありこれも素人弟子であろうことしか分からないらしい。

 そういった由来のためか、世阿弥の残した「花伝書」のような能についての原理的な考え方よりも、謡や舞についての具体的な指南が大分である。それで思い浮かべるのは「喜多六平太芸談」である。こちらも、本人が著述したわけではなく、折に触れて受けた指導や雑談を弟子たちが書き残したもので、かなり趣は近い印象だ。「六平太芸談」の方が現代口語文なので当然こちらの方が読みやすくはあるが…。

 文中に出てくる演目は、廃曲もあるが、「相生(高砂)」「東北」「野宮」「松風」「遊屋(熊野)」「芭蕉」など現在でも馴染みの演目ばかりだ。しかし500年も前ならば現在とかなり違っていたであろう。世阿弥の残した伝書などによれば、当時は笛が謡の旋律に合わせて演奏されていたということだそうであるが、『雑談』の中でそのような現在の能楽との相違点が如実に分かる所はなかったように思う。ただ「幽玄」をもととすることは

一、祝言の声付(こわつき)

中略

さて幽玄と申は枝などの心にて候。それより出候(が)哀傷・恋慕にて候。是は葉・花などのごとくにて候。(P.505)

 

と、「幽玄」あっての心の表現であることを明言している。世阿弥によって築かれた能楽の大前提の理念「幽玄」は、当然の如く演者たちによって共有されていたのだろう。ではさて、「幽玄」とは…世阿弥のを読まねばならないのだろうなぁ、と私は掻首するのだ。ある人曰く、「幽玄」とはそもそもが俊成の歌論から出てきたのだ、と。もうそこまで踏み込んでしまうと、私の方が先に幽玄ならぬ日暮れて遠き道に幽冥の境をさ迷うことになりかねないのではないかと、そぞろ煩悶に堪えぬのであった。