読んだの記1 ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(脇 功訳 2013年 岩波書店)

 傑作、かどうかは分からないが、間違いなく記憶に残る良い作品だと思う。

 この人には「イタリアのカフカ」という賛辞があるらしい。が、あまり当てはまるところはないような気がする。カフカの作風は、アナロジカルな例えだが、文学のキュビズム(ただし私はキュビズムに理解がないのだが、キュビズムの意味を仮に敷衍した上でのものいい)で現れている文章、出来事、表現は複義な印象なのだ(読み馴れていない人には無意味か、茫漠すぎて意味を感じず、困惑させ、いらいらさせる)。表現されている形象に対して解釈が必要、あるいはそう感じざるを得ないのだが、ブッツァーティのこの作品は曖昧さはあっても、不条理でも超常現象でもなく、自然主義印象主義的なもので、一部そのように思われる章立てもあるが、あくまで作品の中で完結する象徴的場面で(一瞬『百年の孤独』を想像させた)人をして迷わせるものではない。

 管見だが、記憶を辿ると、何か通ずるものがあると想い起こさせたのが、トーマス・マンの『魔の山』だ。かたや士官として希望を抱いて任地に赴き、かたや病気の療養で、漠たる不安をかかえサナトリウムに引き籠もる。かたや日々に何か目的を見出そうとし、かたや日々に閑暇を持て余す。しかしどちらも、些細な出来事が(当事者にとっては大きいものもあるが)不意に積み重なった末に最後は突然訪れる。かたや老病の末に、かたや突然の召命に。

 勿論『魔の山』、『タタール人の砂漠』それぞれ読んだ印象や面白さは違う。前者は観念的で密、後者は自然主義的で疎だ。それは舞台としている場所や環境、時代、何より作者の人生の違いだが、どちらも一生の来し方行く末を思わずにはいられない強さがある。

 それにしても今から十数年以上も前に『魔の山』を、今『タタール人の砂漠』を読んだのが奇縁に思えた。